「富んでいると見せて、無一物の者がおり、貧しいと見せて、大きな財産を持つ者がいる。」
この聖書の言葉の中で気になったのは「見せて」という部分である。こちらから誰かに「見せる」ということを言っているからである。人は見かけを気にするし、人は見かけで人を判断する、ということがこの中に含まれていると思う。人は見かけを気にし、見かけで判断され評価されてしまうことがある。人の評価は様々であり、外見で評価されることがあるが、私たちのすべてを知っておられる神様は真実を見ておられる。私たちは神様に本当のことを示していくことが大事であり、同じように人に対してもしていくべきである。たとえ人に誤解されたとしても、神は本当のことを理解してくださる。
私たちは結婚してM県の教会に遣わされた時のことである。洗礼を受けた方が4名おられたが、その1人から「あなたが牧師を続けるなら教会に来ない」と言われたことがあった。それは何かの誤解によることであった。その後私が別の教会に転任した時に、元の教会の方の1人が天に召されたが、その連絡をくれたのは、「教会に来ない」と言った人だった。元の教会へ弔問に訪れてその方とお会いした時、「あの時は失礼しました。先生たちが祈ってくれたことが今になってわかりました」と話してくださった。何かの理由で人が誤解することがあっても、神様は真実を示してくださるのである。私たちは見せかけではなく、本当のことを示していくことが大切である。
こんな話もある。銀座の貴金属店に、風呂敷を抱えたみすぼらしい老人が訪入店し、展示されていた商品を見て回った。店員は怪しい人のように思ったが、その老人は店員に「金の延べ板がほしい」と言って、風呂敷を開くと1千万円が入っていた。老人は金を購入して帰って行った。店員は老人の外見を見ていたので、お金を持っている人だとは思わなかった。まさに「貧しいと見せて、大きな財産を持つ者」だったのである。
身なりは高貴で裕福そうに見えても、財布は空っぽだったりするような人を見て人は騙されるし、手を合わせて拝んだりするようなこともある。私は牧師になって8年間、幼稚園の園長を務めた。園長会議では皆ネクタイにスーツを着て参加していたが、私は普通の恰好をしていた。ある時、私がいつものように普通の服装で、幼稚園で子供たちと遊んでいたとき、1人のおじいさんが「園長はいるかね?」と言って入ってきた。「私です。」というと、急にかしこまって驚いた様子を見せた。人は見かけで他人を判断してしまうものである。
浜松の教会の開拓に遣わされた時のことである。その礼拝堂は90人が入るような大きな場所であったが、パイプ椅子がいくつかあるだけでがらんとしていて、私と家内の2人だけしかいなかった。ある日曜日の朝、1人の婦人が教会に入って来られた。多分イエス様は彼女を導いておられたと思うが、教会の十字架に導かれるようにして入って来たそうである。その時の礼拝で、説教者(牧師)が現れると思ったら、司会者(私)がそのまま説教を話し始めたのでびっくりしたという。当時私は40代だったが、その方はもう少し老人の牧師らしい
容姿の人を期待したのだろう。その時予定してはいなかったが、私の心に示されたので招きの言葉を「信仰とは・・・見えないものを確証するものです」(へブル11:1)と変更した。そのご婦人はその言葉を聞いて、この教会に通おうと思った、という。神の言葉は真実であり、人の心にまっすぐに届いてくださる。その方はのちに洗礼を受けて今も信仰生活を守っている。
聖書には神様の心にかなう王であったダビデ王の事が多く書かれている。ダビデの前の王様はサウル王であった。本来ならサウル王の息子が王を継ぐはずであったが、神はそれを諦め、預言者サムエルを遣わし、ユダ族のエッサイの息子たちの中から新しい王を選ばせた。サムエルは7人の息子たちに会ったが、「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」という主の仰せによって7人はいずれも選ばれなかった。まだ息子はいないかとサムエルに聞かれて、エッサイが羊の番をしていた8人目の息子を連れてきた。それが主が選ばれたダビデ王であった。
私たちが神様に目を向けしたがっていくことは神様の御心であるが、私たちは神様の真実よりもつい自分の事ばかりを考えてしまう。自分の事で心配したり、失望したりする。しかしそのようなこと、心配事を含めて、人ではなく、すべて神様に正直に伝えることが大事である。人は見かけに翻弄される。ある先生がこのように言われた。「私たちにとって恐ろしいのは、見せかけで生きること。自慢し自分を良く見せて嘘を繰り返し、果ては病になる。」他人をだますだけでなく、自分を騙して自分をコントロールできなくしてしまうのである。私は中学生の時、自分で自分をコントロールできないと思ったことがあった。そんな時、学級委員長にならないか聞かれ、「自分のこともきちんとできないのにクラスのことまで構っていられない」と言って断った記憶がある。後
に神様を信じるようになってから、それは正直な思いであったとあらためて分かった。
聖書に「心の貧しい者は幸いである」と書かれている。自分はそのようなものです、と心から言えることが大事である。人の世界では謙遜して「いやいや私のような者は・・・」ということもあるが、それも見せかけかもしれず、分かりにくい。しかし本当の自分を受け止めて理解してくれるのは神様だけである。私たちの弱さも欠点もすべてちゃんと知っていてくださる神様だからこそ、私たちを救ってくださったのだ。神は、見せかけではなく真実を見ておられ、私たちを分かってくださっている。神様の前に真実な思いを持つ人を、神様は喜んでくださると信じている。
神の前に真実な人は、人に対しても真実である。目に見える人に対して真実でない者は、どうして見えない神に対して真実を示せるだろうか。聖書の他の箇所でも同じようなことが書かれている。(目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。ヨハネの手紙I、4:20)人の世界は見せかけにあふれているが、本当に神と人との前に真実を選び取って歩んでゆきたい。クリスチャンの歩みは嬉しいことばかりではない、クリスチャンだからこそ損をすることもある。イエス様を信じたことで命を落とした人々もいた。神様は真実を喜び、祝福を加えてくださる。今週もともに真実な歩みをしてゆこう。